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笠岡のおいたち

ページID:0001255 更新日:2015年2月19日更新 印刷ページ表示

笠岡のおいたち

原始

現在、市街地周辺は大部分が海であり、隅田川・今立川・吉田川などからの土砂の堆積により、陸地化したものと考えられています。

古代(古墳時代~平安時代)

古墳時代の5~6世紀には北川・新山に長福寺裏山古墳群をはじめとして古墳が築かれており、有力な豪族の支配下にあったことがわかります。
「笠岡」の地名は古代の「笠臣氏」の勢力範囲であったことによると言われています。
笠臣氏は吉備氏の一族で、大化の改新以後の国群制の施行により、笠岡地方はいくつかの群・郷に分けられました。

中世(鎌倉時代~室町時代)

鎌倉時代から室町時代には源平の動乱・南北朝の動乱でその名を残している陶山氏が勢力を持っていた。
陶山氏は初め金浦に居を構えましたが、のちの笠岡へ移り笠岡山城を築きました。
ここを拠点として、市街地を整備して、現在の笠岡の基礎を作ったといわれています。
陶山氏の没落後、戦国時代になると毛利氏の中国地方進攻とともに、笠岡は16世紀の中頃に毛利方の村上氏の支配となりました。
村上氏は水軍を率いて活躍し、笠岡には笠岡城が築かれました。
現在の古城山公園はその城跡になっています。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は徳川氏の直轄地となりました。
その後、元和2年(1616年)に備中松山の池田氏、元和5年(1619年)には備後福山の水野氏の所領となった。
延宝2年(1674年)には干拓により富岡新田が生まれ天和2年(1682年)に独立村となりました。
元禄11年(1698年)に再び幕府の直轄領となり、同13年(1700年)笠岡に初めて代官所が設けられ、以後幕末まで42代168年の代官支配が行われました。
これらの代官の中には「いも代官」として有名な井戸平左衛門や「敬業館」を設立した早川八郎左右衛門がいます。

近代

明治元年5月倉敷県に属しましたが、明治4年11月倉敷県が廃止され、備中一円と備後の一部とによって深津県が設置され、その管轄となりました。
翌5年6月7日に深津県は小田県と改められて、同県の県庁が笠岡に置かれました。
明治8年12月10日小田県は岡山県に合併されました。
明治22年6月1日に町村制、山陽線開通の年明治24年10月23日に町制を施行し、以後60年間、笠岡町は備中地方の産業・交通・文化の要衝として発達しました。

現代

昭和26年4月1日今井村を編入、翌27年4月1日金浦町と合併して市制を施行しました。
昭和28年10月1日城見・陶山・大井・吉田・新山・神島内の6ヵ村を編入、昭和30年4月1日神島外町・白石島村・北木島町・真鍋島村・大島村(柴木地区を除く)、さらに昭和35年4月1日北川村を編入して、面積117.9平方キロ、人口73,232人、16,604世帯の中都市となりました。