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関鳧翁の墓

ページID:0002472 更新日:2017年7月12日更新 印刷ページ表示

関鳧翁の墓(せきふおうのはか)

市指定 史跡

所在地 : 笠岡市笠岡字古城山 /管理者 : 個人
指定年月日 : 昭和48年6月28日

関 鳧翁の墓
関鳧翁の墓

天明6年(1786)~万延2年(1861)
関鳧翁(せきふおう)は笠岡が生んだ偉大な歌人・国語学者で、本姓を関藤、名を政方(まさみち)という。福山藩で活躍した関藤藤陰は彼の弟にあたる。天明6年(1786)吉浜村に生まれる。33歳のとき笠岡村の石橋町へ転居して医師を開業し成功する。還暦の頃から鴨の羽毛入りの服を着用し、以後、鳧翁と名乗ったという。
歌集として、『安左豆久比』『嘉平田舎詠草』、菅原神社奉納『梅歌千首集録』(市重文)などがある。また、『傭字例』では、日本語の音の韻尾「ン」と「ム」との区分を明らかにし、漢字の和音の誤りを正すなど、すすんだ業績を残している。
万延2年(1861)、76歳で病没。その墓は、彼が生前に定めていた古城山西麓に立てられた。墓石に刻む辞世の和歌「わか魂の行へはいつくしら雲のたたむ山べの松のした陰」は彼の自筆になるという。