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小寺清之の墓

ページID:0002471 更新日:2017年7月12日更新 印刷ページ表示

小寺清之の墓(こでらきよゆきのはか)

市指定 史跡

所在地 : 笠岡市笠岡字小丸 /管理者 : 個人
指定年月日 : 昭和48年6月28日

小寺清之の墓
小寺清之の墓

明和7年(1770)~天保14年(1843)
小寺清之(きよゆき)は、敬業館初代教授・小寺清先の長男で、明和7年(1770)笠岡村で生まれた。
通称を監物といい、楝園と号した。寛政11年(1799)、30歳のときに父の清先から陣屋稲荷の宮司の職を継ぐ。文政3年(1820)には宮司の職を養子清房に譲り、福山藩に請われて備後の市村に赴き、さらに深津村(いずれも現広島県福山市)に移って塾を開いた。武士から農民まで多くの人が学んだので、福山藩から五人扶持の禄を支給されるまでになった。天保14年(1843)74歳で死去した。関鳧翁が深津まで行って臨終に立ち会っている。おもな著書に『備中名勝考』、『老牛余喘』があり、また『備中誌』の編者の1人となっている。
昭和51年に、子孫によって墓地の整備と清之の墓誌碑「楝園小寺先生之碑」建立が行われた。碑文には清之の没後、福山藩の関藤藤陰が書き残していた文章が刻まれている。