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鳥越新平衛成寿の墓

ページID:0002469 更新日:2017年7月12日更新 印刷ページ表示

鳥越新兵衛成寿の墓(とりごえしんべえ)

市指定 史跡

所在地:笠岡市入江字竹ヶ端 /管理者 : 個人
指定年月日 : 昭和33年4月25日
鳥越新兵衛成寿の墓
鳥越新兵衛成寿の墓

寛文11(1671)~宝暦11年(1761)
入江新田・西大島新田干拓の功労者。小田郡本堀村(現矢掛町)で庄屋の子として生まれた彼は、長じて大阪に出て土木業を営み、「尼崎屋」をおこした。正徳3年(1713)、同志の西川屋源右衛門と共に、小田郡横島村と浅口郡西大島村との間の広大な干潟の干拓を笠岡代官所に願い出た。そして苦労の末、享保10年(1725)にようやく許可を得る。
享保16年(1731)、ついに総計52町3反1畝6歩(約52ヘクタール)に及ぶ大干拓地が完成し、入江新田・西大島新田・浜中新田と名付けられた。入江新田と西大島新田には、新しい村が設けられ、それぞれ、幕府領と鴨方藩領に編入された。
この新田開拓の功により、新兵衛は入江新田の庄屋に取り立てられ、竹ヶ端の海岸に屋敷をかまえた。宝暦11年(1761)年9、91歳の天寿を全うした新兵衛の墓は、彼が開いた干拓地を見渡せる小高い丘の上に建てられた。
なお、丘のふもと(今立川の河口)には、近年「鳥越新兵衛翁頌徳碑」が建てられている。