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井戸平左衛門と石見銀山

ページID:0034551 更新日:2021年4月1日更新 印刷ページ表示

井戸平左衛門と石見銀山

 笠岡市と大田市は、「いも代官」と慕われる井戸平左衛門のご縁から、平成2年4月に、友好都市縁組を締結しています。令和2年度には、友好都市縁組30周年を迎えました

 ここでは、井戸平左衛門と石見銀山、そして日本最古のマスクを作った笠岡の医師・宮太柱をご紹介します。

 

井戸平左衛門

 井戸平左衛門正明は、江戸時代に笠岡が幕府直轄地だったときの名代官です。今でも「いも代官」として多くの人に慕われています。武蔵国に生まれ、井戸家の養子となり、幕臣として30年あまり勘定役を勤め上げました。享保16(1731)年、60歳にして石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官となり、翌年からは笠岡代官を兼務しました。

 当時、未曾有の大飢饉(享保の飢饉)が発生していました。平左衛門は、領民を救うため幕府の許可を待たずに年貢米を人々に分け与えたと言われています。また、被害の大きな村々の年貢を免除し、領民には助け合いの心を説きました。さらに、やせ地でもとれる食物としてサツマイモ栽培を導入して飢えをしのぎました。これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられます。享保18(1733)年に笠岡で亡くなりました。井戸平左衛門の墓は、威徳寺にあり、市指定史跡になっています。

 詳しくは、井戸平左衛門紹介パンフレット [PDFファイル/856KB]をご覧ください。

 

井戸公園に立つ「井戸明府碑(いどめいふのひ)」

 威徳寺の隣にある井戸公園は、井戸代官をしのんで大正2(1913)年頃に地元の高徳会、井戸会が桜を植えたことに始まります。昭和11(1936)年に笠岡町へ寄附され、昭和31(1956)年に笠岡市都市公園となりました。公園内には100本以上の桜が植えられており、春になると私たちの目を楽しませてくれます。園内には、井戸代官を称えた「井戸明府碑」や「井戸平左衛門さまの歌」の歌詞看板があります。

 「井戸明府碑」は、昭和19年5月に、井戸公を称えて建てられました。生い立ち、功績が彫られています。詳しい内容は、井戸平左衛門紹介パンフレット [PDFファイル/856KB]をご覧ください。
 井戸公を顕彰する碑は、このほかにも各地に数百基建てられています。

井戸公園
井戸公園

井戸明府碑
井戸明府碑

 

石見銀山

 井戸平左衛門は、享保16(1731)年、60歳にして石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官となり、翌年からは笠岡代官を兼務しました。

 石見銀山は、大永7(1527)年に、博多商人の神谷寿禎により発見されました。天文2(1533)年、精錬技術である「灰吹法」が導入され、大量の銀が生産されるようになりました。
 石見銀山ではぐくまれた技術は各地に広まり、日本は世界有数の銀産出国となりました。江戸初期の17世紀初め、日本から輸出された銀は、年間約150~190トンでした。当時、世界全体の銀の産出量は約600トン、日本銀が実に世界の銀の約25~30%となります。同時期の石見銀山の推定年間産出量は約40トンで、石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていました。

 しかし、銀山の開発が進むにつれ、坑道も地中深くに延びると、湿度や採掘時に出る石粉、また灯りから発生する油煙などで、労働環境はさらに劣悪になりました。そのため、鉱山労働者特有の「鉱山病」に罹る者も少なくありませんでした。
 そうした中、安政2(1855)年に大森代官であった屋代増之助は、備中国笠岡の医師・宮太柱に鉱山病対策を依頼しました。

 

日本最古のマスクを作った宮太柱

 笠岡で医業を営んでいた宮太柱は、大森代官から依頼を受け、鉱山病対策に取り組み、坑内へ蒸気を注入する送風機を発明したり、労働者が着用するマスクを考案するなどの功績を残しました。 

 宮太柱は、文政10(1827)年、備後国安那郡(現福山市神辺町)の宮太立の次男として誕生しました。父太立は長崎で蘭学を学び、のちに福山藩の藩医に抱えられました。
 一方で、息子太柱は尊王攘夷運動に関わったことから、父太立は責任を取って太柱とともに国元に帰り、笠岡で町医者となりました。

 その後、宮太柱は安政2年に大森代官に招かれ、鉱山病の本格的な対策にあたりました。太柱は、鉱山病の誘発は、抗内のガスや鉱毒などが原因であることを突き止めました。
 その対策として、症状を緩和する効能を持つ薬草の蒸気を坑内へと注入する、送風機を発明しました。また、「福面」といわれる、現在のマスクを日本で初めて考案しました。このマスクは、梅実を布地に挟むことで、目詰まりする石粉を梅の酸で防ぐといった細やかな工夫が見られました。これらの原因への対応は、近代医学の基本であり、近代的な鉱山病対策の先駆けでした。

日本最古のマスク「福面」
日本最古のマスク「福面」

 

 

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